2009年04月20日

「原点」としての大平

「原点」としての大平

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古宿場の民家を残したまま、住民が集団移住して無住の集落となった山中の弧村、大平宿にかかわって30年近くになる。
大平の民家は立派な家ではない。
歯に衣を着せずにいうなら、ボロ屋というべきであろう。
しかしそうした家々が語りかけ、それに心を燃やす人たちがいて、その渦中に過ごす日々は、建築家などという小さな枠を超えた自分というものを気付かせてくれた。
その中身を話せるだけの言葉をまだ知らない。かろうじてそれを「原点」という言葉にしておく。 
  (吉田桂二)



大平宿とは
民家の特徴
大平宿の風景 昔と今
大平宿の紙芝居
◆今までの大平建築塾
   第1期−大平建築宿
   第2期−大平建築塾
「1993年大平宿民家9棟の改修報告書」
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2009年04月19日

大平宿とは

大平宿とは

昭和45年焼失前の集落の様子の再現(画:吉田桂二)
 焼失した集落中心部の復元パース

00-03.jpg 大平の所在は長野県の南端に近い飯田市だが、市内とは名ばかりの山中、30戸にも満たぬ弧村である。

 ここに村が拓かれたのは、江戸時代中頃の宝歴4年(1754)に遡る。藩が飯田城下から峠を二つ越えて中山道の妻籠に至る脇街道の安全のため、峠間の高所に設けた茶屋宿に始まる。入植したのは木地師の一統で、杣(そま)・木挽(こびき)と茶屋宿の併業であった。

 村が宿場として機能したのは明治期まで、大正2年に伊那電鉄が飯田に達して後は、杣、炭焼、畑作を生業とするごく通常の山村として推移した。

 しかし戦後、1960年頃になると、頼みの木炭も燃料革命といわれる石油への転換で売れなくなり、人口の都市集中で村は急速に過疎化し始めた。木炭が駄目ならパルプ材でと、見る見る裸になり、1970年、集団移住となった時には山林資源は後3年分を残すのみだったという。

 村が無住化して間もなく、観光業者がここを別荘地として売り出すべく着手したが、オイルショックで倒産。自然保護の見地でこれに反対して起った市民運動から生まれた組織、「大平宿をのこす会」が1973年以来、今日まで、ボランティア活動を中心とした自主的運動を展開して、この村を生活の原体験の場として再利用しつつ保存してきた。「大平宿をのこす会」の運動は、1980年に実施された(財)観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)の「大平宿保存調査」を皮切りにして、「満寿屋(ますや)」を1982年、「紙屋(かみや)」を1987年に保存改修した。1993年には「ふるさとづくり特別対策事業」により9戸を保存修復した。
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2009年04月18日

民家の特徴

民家の特徴

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 大平宿に残されている民家には、江戸末期から明治にかけての、山村においての茶屋宿の面影が顕著に見られる。
 その特徴の一つは、木材資源に恵まれた山村として全戸が緩勾配の板葺き石置き屋根であること。
 もう一つは、これも全戸が茶屋宿の特徴である前土間持ち、山中ゆえの寒冷地としてイロリのある広場を中心とした取巻き広間型間取りであること。
 さらに一つは、宿場らしく街道面をせがい造り(出桁造り)にしていることなどがある。

せがい

 大平宿に見られるせがい造りには三つのタイプがあって、その一つは、平入りの街道面の軒のみを出桁にしたタイプ。このタイプの民家が最も古くて江戸末期。
 その二は、妻入りの街道面の妻壁から上を出桁にしたタイプで妻壁中央に窓をつける。
 その三は、平入りの街道面の2階、といっても形だけで寸のつまった2階だが、そこから上を出桁にしたタイプで疑似2階窓をつける。このタイプが最も数多く明治期に属する。
 他にせがい造りではないタイプが2戸あってこれは付け庇タイプ。最も古いタイプに次ぐ古さと推定される。
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