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| 焼失した集落中心部の復元パース |
ここに村が拓かれたのは、江戸時代中頃の宝歴4年(1754)に遡る。藩が飯田城下から峠を二つ越えて中山道の妻籠に至る脇街道の安全のため、峠間の高所に設けた茶屋宿に始まる。入植したのは木地師の一統で、杣(そま)・木挽(こびき)と茶屋宿の併業であった。
村が宿場として機能したのは明治期まで、大正2年に伊那電鉄が飯田に達して後は、杣、炭焼、畑作を生業とするごく通常の山村として推移した。
しかし戦後、1960年頃になると、頼みの木炭も燃料革命といわれる石油への転換で売れなくなり、人口の都市集中で村は急速に過疎化し始めた。木炭が駄目ならパルプ材でと、見る見る裸になり、1970年、集団移住となった時には山林資源は後3年分を残すのみだったという。
村が無住化して間もなく、観光業者がここを別荘地として売り出すべく着手したが、オイルショックで倒産。自然保護の見地でこれに反対して起った市民運動から生まれた組織、「大平宿をのこす会」が1973年以来、今日まで、ボランティア活動を中心とした自主的運動を展開して、この村を生活の原体験の場として再利用しつつ保存してきた。「大平宿をのこす会」の運動は、1980年に実施された(財)観光資源保護財団(日本ナショナルトラスト)の「大平宿保存調査」を皮切りにして、「満寿屋(ますや)」を1982年、「紙屋(かみや)」を1987年に保存改修した。1993年には「ふるさとづくり特別対策事業」により9戸を保存修復した。
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